(最初から見る)
「それなら、べつに人間じゃなくてもいいんじゃない?」
不意に滑り込んできた幼い声に、私はコンソールを叩く手を止めた。
振り向くと、そこでは初等学校に入ったばかりくらいの小さな女の子が立っていた。
少女は子供らしい無垢な瞳で、微笑みを浮かべながら立っている。
「…………え?」
私が曖昧な返事を返すと、少女は楽しそうにくすくすと笑ってみせた。
「おねえちゃん、さっきからずーっと考えてることが口にでてたよ? わたし、あっちにいたのに、それでもよく聞こえちゃった」
そう言って、少女は研究室の片隅を指さした。
そこに並んでいる研究員用の机のひとつが、折り紙やら絵本やらで、あからさまに不自然に散らかっている。
あの場所は、確か……。
「こら! おまえ、またこんなところに! お仕事の邪魔しちゃダメって言ってるだろ?」
こつん。少女の頭が、無骨な握り拳によって小突かれる。
視線を上げれば、いつもの彼が口を尖らせながら立っていた。
「すみません、主任。こいつ、いくら言ってもじっとしてられないようで」
「むー。わたし、ずっと大人しくしてたもんっ。それに、やることないんだもん」
「それなら、ふらふらと勝手に歩き回らないこと。まったく、だから研究室なんて、子供には退屈なだけだと言ったのに……」
「こどもじゃないぃー」
青年が普段は見せない表情を浮かべて、少女の頭を押さえつける。
そう言えば少し前、彼がにやけ面で「娘が生まれた」と言いふらしていたことを思い出す。
しかし、まさかもうこんなに大きくなっていたとは。まったく、月日が経つのは早いものである。
いや、それとも……
「……私も、いつの間にかおばさんになっていたってことかしらね」
「え。主任、何か言いました?」
「いいえ、大したことじゃないわ」
そのまま仕事に戻ろうとして、私は途中で手を止めた。
なんだろう。理由はない。だけど、
――――何か今、聞き逃してはいけないものがあった気がする。
「ねえ」
私は、去り行く背中へと声をかけた。
青年が、何故だか妙に慌てた様子で振り返る。
「はい? あ、例のd-hole活性化過程に関する資料のまとめですか? すみません、あれ、まとめるには、まだちょっと時間がかかりそうで……」
「あなたじゃないわ。そっちの子よ」
「……わたし?」
ええ、と私が薄い微笑みで頷くと、少女はこくんと可愛らしく小首を傾げて見せた。
不安と期待が半分半分に入り交じった表情。
私にも、こんな顔をできた時代があったのだろうか。
できるだけ柔らかい声を心がけ、私はゆっくりと口にする。
「あなたがさっき言っていた話、もう少し詳しく教えてもらえないかしら?」
「…………?」
どうやら、もう覚えていないらしい。
今度は私の方が苦笑を漏らすと、少女の瞳をまっすぐに見据える。
「ほら。人間であることは、必須ではないはずだとか」
私がその言葉を出した途端、少女の顔に満面の笑みが広がった。
父親が止めるのもかまわず、私のもとまで小走りにやってくる。
話をせがまれたことが余程うれしかったのだろうか。彼女は、私が身に付けている白衣の裾をきゅっと掴んで、こちらを見上げた。
「うんとね。そのね、おねえちゃん、さっき、人間にはそんな『いーえすぴー』がないとか、ちからが足りないとか言ってたけどね、そうじゃないの。わたしね、この前おえかきコンテストでね、いっとうしょう、とったの。ママのおりょうり、すっごくすっごくおいしいの」
私は、少女と目線の高さを同じに合わせる。
舌足らずにしゃべられる言葉のひとつひとつを、聞き漏らすまいと集中する。
「だけどね、動物さんの方がすごいことだって多いんだよ? 走るならうさぎさんの方が速いし、泳ぐことならお魚さんにはかなわないの。だからね、いーえすぴーならいーえすぴーが得意な子に、おねがいすればいいんだよ?」
そう言って、えっへん、と少女は小さな胸を張る。
父親である青年はひとりだけ置いてきぼりにされた顔で、呆然とそのやりとりを眺めていた。
「…………」
私は口元に手を当てたまま、その微笑ましい表情から視線を下ろす。
少女の胸元。
そこでは可愛らしくデフォルメされた大きなイルカのぬいぐるみが、つぶらな瞳で私のことを見つめていた。
|